「自立」というテーマは面白い。
こと、「信仰の自立」と考えると、なお一層哲学的で、深い。
と、今の私は思う。
例えば、キリスト教だったら、
自分で自発的に聖書を読んだり、祈ったりするので十分「自立」って考える人もいるだろうし、人にキリスト教とかイエス・キリストの救いについて説明?伝道?できるようになって初めて「自立」って考える人もいるだろう。
あるいは例えば、孤島に流れ着いて、
そこで神に祈ったら、それで「自立」と考えるのも悪くない。
同じような発想で、刑務所にぶち込まれた時に、最後に聖書の言葉がその人を支え、まったくの孤独にさいなまれた時に、何か「真理」に近づくことができたなら、それをもって「自立」と呼んでもいいような気もする。
「立っていると思っている者は倒れないように注意しなさい」って…聖書の言葉にあったような気がします。
「自立」してるって自分で思ってても、実際はそうでもないってのが、聖書の行ってる「自立」なのかもしれない。
現実的に「困ったこと」「深い悩み」に直面しないと、人って神に頼らないと思うから、信仰の世界としては、あんまり自立してないほうが正常なのかもしれない。
やはり、「自立」というテーマは、深い。
(@_@)
仔羊おばさん