風通しのいい人生

クリスチャンライフについて語る、祈る。

すっごい転機

 前回、一回目の転機を書きました。下記です。

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 今日は、洗礼に至る本当の転機を書こうと思います。

 まず、上記のブログで書いたように、キリスト教、ってものに最初に触れたのは中一の時でした。その時にすぐに信じる人もいましたが、やはりと言うべきか、そんな子はクラスに一人いるかいないかでした。

 その後高校卒業まで、私はミッションスクールで過ごすのですが、ミッションスクールというところは、キリスト教についてすごく知る機会が多く、クリスチャンのすばらしさを知る機会が多いと同時に、一方でまた、クリスチャンに失望することも非常に多くあります。

 少なくとも私の経験ではそうです。

 クリスチャンの先生もとっても多いので、そういう先生を通じて、「いいなあ」と思うことが多いと同時に「えー( ̄д ̄)何さ!」と先生の行為に思うことも多いのです。-なんか、今の教会生活にも一脈通じるようなー

 まあそういうことで、高校卒業まで宗教について結構曖昧な姿勢で過ごしました。けど、ベイカー先生との出会いとかもあったし、「死ぬって?」とかもずっと考えていました。私は、精神的な傾向として、「人を殺したい」という攻撃より「死のうか?」という自傷行為の傾向の方が強いところがあって、中学・高校時代は「手首切ったらどうなる?」とか早朝教室の窓から下を眺めて、「今なら死ねるな」とか考えることが多い子供でした。

 反抗期も激しくて、親が大嫌いだったし、何かにつけて反抗、口答えを繰り返していました。友達が「親も愛せないような人って人間じゃない」と言うのを聞くと、「私って誰も愛せない人間なんだ」と思ったりしました。

 (今、50代になりましたが、私はやはり情が薄く、どっちかっていうと心の冷たい、愛情の貧しい人間ではあると思います。)

 だけどなんとなく、キリスト教以外の宗教は信じなくなっていて、大学もミッション系に進みました。でも大学で、一度礼拝に出席したのですが、期待とは裏腹になんか「講演会」みたいな内容で礼拝とは程遠く、がっかりしちゃってもう二度と行きませんでした。

 どういうか、たとえキリスト教に好意を持っていても、「日本」という土壌でフツーに育ってたら、「教会に行く」とかはないし、「入信する」とかも人生の選択の中に出てこないんだと思うんです。私もまったくそうでした。

 大学を卒業して就職、就職先は小売業でしたので土日は仕事で、教会に行くとかはやはり自分の人生にはありませんでした。ただ、入職後の研修の一環で禅寺で修行する、というのがあって、すごくそれは嫌でした。座禅を組んで長時間座る「あれ」です。雑念の多い者は棒でたたかれます。嫌がっているのがわかるのか、私は結構たたかれました。(;^ω^) 同期に創価学会の学会員がいたのですが、この研修について「嫌」というのはすごく共通していて、意気投合したものです。

 就職して2年、「外国人に日本語を教える先生になりたい」という思いが強くなり、仕事を辞めて学校に通うことにしました。ちょうど4月。

 その学校に通うのと同時に、日曜に教会に行こうと思って、電話帳で調べて(当時はすっごい分厚い電話帳が各戸に配布されていまして)、最寄りの教会を調べ、思い切って行きました。

 それから洗礼を受けるまで大体半年くらいでしたね。

 当時付き合っていた男性もいたのに、洗礼を受ける、ということで別れました。ものすごい泣きましたが、それよりも大きい、何かわからない強い、強い思いが自分の中にありました。なんでイエス・キリストを、彼氏と別れてでも信じられたのかは、今もって説明はできません。

 聖書に「誰でも聖霊によらなければイエスを主であると告白できない」という言葉がありますが、自分自身の体験がそうです。

 洗礼を受けてからもう30年が過ぎました。その間、信仰から離れたことはありませんし、なんでみんなはクリスチャンにならないのかな、と不思議に思うほど満足です。

 本当に風通しのいい人生を送っています。(^◇^)

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