風通しのいい人生

クリスチャンライフについて語る、祈る。

現役プロテスタント教会会員が献金について説明する⑤ 余談だが大事に思う余談

さて、現役プロテスタント教会会員(信徒)が献金について説明するシリーズの5回目です。

今回は献金の説明というよりは余談です。

でも大事なことだと思います。

 

歴史が浅く、教会の土地・建物のローンを払っている教会や、教会員(信徒)が少なく、経済力のない(有体・ありていに言えば献金の少ない)教会では、牧師の生活は支えられず、牧師が働いている教会は少なくない、ということを書きました。

 

しかし、これは避けたほうがいい一つのことなので、その理由について書きたいと思います。

 

牧師さんは、たとえどんなに少なくても献金の一部で生活し、極貧に耐えるのがよさそうなんですが、そうすると牧師家庭の子供はぐれちゃいますよね。

今、旧統一教会の行き過ぎた献金の強要が「宗教2世」の困窮を呼んでいますが、同様のことが牧師家庭にも起きるわけです。

そんなことは良くないでしょう?

だから、牧師家庭といえど、子供が社会的に不利にならない程度には収入が必要になります。
しかし教会にお金がない。

で、牧師が働きに出る。

 

牧師が企業で働くメリットは「働く信徒の気持ちがわかる」ですかね。

 

でも、牧師が働くと肝心かなめの牧師の仕事に影響が出ます。

それが良くない、避けた方がいい、と言いたいのです。

 

牧師には様々重要な任務がありますが、その中でワタクシが看過できないと考えているのが

看取り

です。

 

ワタクシはドラマ「大草原の小さな家」が好きでよく見るんですが、日曜礼拝のメッセージなどを通じて集落の人々を良い方向に導く、というのも大事です。

しかし、ゆるがせにできないのは「看取り」だな、と強く感じました。

偏屈で、村民が付き合いにくい人にも寄り添う。

一人暮らしの高齢者を訪問する。

病人に寄り添う。

そしていよいよと言う時には本人の遺言を聞く。お葬式に関する事、お墓に関する事、遠方の親族(息子や娘)が来たらこれを渡してほしい、財産(といっても貧しいので形見分けに近い)どうする、とか。

天国に旅立つ本人に寄り添う。

あんなに小さい集落でも、そんな存在がどうしても必要なんだなと深く感じ入ります。

 

日本ではキリスト教は社会に浸透してないので、この点について大きい社会的ニーズを担っているとはいえませんね。

だけども信徒にとっては大事なことです。

急な事故、大病、手術など現代だって緊急事態は発生します。

牧師が仕事をしてて、その働きが疎かになるのは避けるべきだとワタクシは考えています。

では牧師謝礼はいくらだったら適当か、とかはワタクシにはわかりません。

まあ、多過ぎず少なすぎずがいいんでしょうね。

 

日本の牧師さんたちが働かなくてもいい程度には献金が集まればいいな、って強く思う次第です。

 

仔羊おばさん