このブログを書いているワタクシこと「仔羊おばさん」は洗礼を受けて35年以上になる。
その間、海外に住んでた時は現地の教会に行っていました。
あと、旅行や出張に行った際にも現地でとにかくどこかの教会に行って、日曜は礼拝をしています。
今日は、そんなベテラン・現役プロテスタント教会教会員のワタクシが、「信徒の信じていること・もの」について書こうと思います。
例えば聖書には「おとめマリアからイエスは生まれた」とか、
「5つのパンと2匹の魚で5000人ほどの人がおなか一杯食べた」とか、
非科学的やん
( ̄ー ̄)
と思われる数々のこと(奇跡ともいう)が書いてあります。
そういうことについて、自分はどう思っているのか正直に書きたいと思います。
ワタクシが日ごろ行っている教会はプロテスタントの「福音派」に属します。
「福音派」は、一般に聖書に書いてあることは一言一句その通りだと信じるというのが、その特徴です。
アメリカでもこの「福音派」は多くいて、「ノアの箱舟」なんかもその通り信じている派です。
同じキリスト教でも、5つのパンと2匹の魚で何千人もの人が養われた、といような話を「そのまま信じる派」と、「いやいやこれって何かを象徴した話のはず。きっとそれらの人々が遠慮して譲り合ったから何千人もの人がおなか一杯になったんだ」と解釈する派もあります(と、聞いています)。
では、じゃあ、自分の所属してる教団教派が聖書の文言を一言一句信じてるから、信徒も必ず信じてるかというと、ワタクシはそこにちょっとウソもあるかなと感じます。
もちろん、牧師や牧師夫人や宣教師や伝道師のように神学校を卒業し、礼拝で説教をするような方は信じてるんじゃないかと思います。
キリスト教に興味はあって、信者になろうかと検討してみて、
「人間はアダムとエバの子孫であり、サルから進化したものではない」という文言を聞いただけで、
そんなペテンみたいなもん、信じられるか⁉
(; ・`д・´)
と怒ってしまう方も少なくないでしょうね。
そんなんでよく、キリスト教を信じられるものだ。自分はそんなもの、信じないぞ。
こっからはワタクシの本音を書いてまいります。
ワタクシは、例えば進化論についての考えは曖昧です。
「サルから進化した」と言われれば、そうかなと思い、
「聖書に書いてある通りだ」と言われれば、そうかもと思います。
要は「ようわからん」のです。
で、別にサルから進化してたからといって、自分の人生の悩みは変わらないわけだし、いわゆる「神の愛」も、そんなことで変わるとも思っていないのです。
だから「どっちでもいい」と思っています。サルから進化しててもしてなくてもそれってそんなに大事なことか?
と、思っているのです。
教会で他の信徒さんにこのことについて質問したことはありません。
聞くだけ野暮というか、表向きの答えは「聖書の通り信じてる」だということはわかりきっています。
「いや自分は進化論を信じてる」と答える方もいるとは思いますけど、その方はきっと「学術的にそうだから」と答えるか、でなければ「学校でそう習ったからそうじゃないかと考えてる」というふうにおっしゃるのではないかと想像します。
まあ、一般の信徒ってそんなものです。
学歴や教養の程度も千差万別ですから、実際、一人ひとり聞いてみたらそんなもんだろうと想像します。
他の聖書に書いてある「奇跡」についても、信じられるやつもあるし、信じがたいものもあります。
さっきの「5000人に食べさせた」に比べたら、「病人を癒した」「死んだ人を生き返らせた」「おとめマリアから生まれた」のほうが、むしろ信じられます(ワタクシは)。
そんなこともあるかも
とか思うわけ。
でも、ずっとクリスチャンでいて、教会にも通っている本当の理由は
イエスの教えの革新性
にある、というのがワタクシの答えです。
だから、もしかして奇跡話が全部違っていたとしても、だからじゃあ、クリスチャン辞めますか?ってったら、そうはしないだろうと思います。
たとえば、ワタクシは新約聖書の中の、下記のようなエピソードに心を深く打たれます。
律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に女に石を投げなさい。」
そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
彼らはそれを聞くと、年長者から始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。
こういう教えに深く感動してクリスチャンになったわけです。
余談になりますが、そんな価値観からみれば、今、神戸の斎藤知事に向けられている非難は、本当に正当なものなのかと考えたりします。
実際に被害に遭った方以外の人は、報道に乗って非難の上乗せをする権利はあるのかな。
よってたかっていじめてるような構図に見えてしまいます。
もちろん、パワハラで自殺された方がおられるとなれば、それについての責任は重いと思います。でも世のパワハラ加害者がこんなに報道でたたかれているところもあまり見ません。
兵庫県知事のしたことを、全国ニュースでこんなに繰り返しやらないといけないですかね?
次回の選挙でこういった知事を選んでしまわないようにするにはどうしたらいいかというような視点ならまだわかるんですけど。
話がそれました。
そんなこんなで、一人一人のクリスチャンが聖書の一言一句を全部信じてなかったとしても、やはりイエス様との出会いを出会って、クリスチャンはクリスチャンになったんだと言えます。
ある意味、教会や教派、教団を信じているわけじゃなくて、イエス様を信じているのです。
わかっていただけるかな?
仔羊おばさん