ワタクシには統合失調症の息子がいるのですが、歩いている時、
何か私に質問してよ?
と頼んだら、今日の表題のような質問がありました。
皆さんはどうですか?
最近、ご自身で「これは変わったな」と思うような何か、ありますか?
ワタクシはですね、その時息子に教えなかった変化があります。
それは
謙虚でなくなった
であり、
盲目的でなくなった
であり、
理想主義とはさよならした
だとだと思います。
若かりし頃は、牧師の説教にしろ何にしろ、そのまんま謙虚に受け取っていました。
「伝道せよ」と言われたらそれが実現できない自分に苦しみ、
「夫に従え」と言われたら従うように生きました。
最近はねえ。
「信仰生活、マンネリに陥ってませんか?」って言われたら
「家族がノンクリスチャンの私にそれはないわ。毎週日曜礼拝に行くだけで『信仰宣言』してるみたいなもんじゃん。でも確かに教会はそんなあっちこっち比べて来たんじゃないから、確かに『教会選び』はマンネリかもな。ほんなら、いろんな教会に行って選んだろか」
とか思います。
でも確かにそんなの、もう面倒くさいです。
( ̄ー ̄)
盲目的でなくなった。これは「理想主義にさよならした」ゆえですね。
洗礼受けて20年くらいは、クリスチャンソサエティというものに憧れていました。
社会の多くの人がクリスチャンだったら、世の中どんなにいいか。
って思ってました。
本当に愛を実践する社会。
軍隊(自衛隊)も持たず、国の上層部(政治家や官僚)も神に聞き従う、聖書的に生きてくれたら。
どんなに素晴らしい世界だろう!
(*‘∀‘)
まあ、誰しも一度はそういう「理想的な社会」を夢見るんじゃないですか。
例えば、保育所には必要な人がすぐに入れる、介護施設の職員は常に陽気で笑顔を絶やさず働ける環境にいる。
学校も礼拝に始まり礼拝に終わる。
みたいな。
でもねえ、最近は思ってるんです。
聖書原理主義(聖書に書かれている通り、文字通りその通り生活する理想の信仰生活および社会生活)的な生活って、結局「イスラム原理主義」と大体同じになる。
タリバンやん。
結局はそういうことなんですよ。
政治も神から与えられた権利、「決定は神に聞く」ってそれ……
王権神授説に似ていますよね。
同姓愛は罪
ってなったらSDG’sはどうなっちゃう?
若い牧師が「為政者が神に聞かないこの国の罪をお許しください」などと祈っているのを聞いてです。
ワタクシは心の中でどっか冷めております。
徹底的に聞いたらタリバンみたいなんで(タリバンのようになるよ)。
と、思ったりしてるんです。
で、実際、宗教の世界って、何が神の前に正しくて何が罪なのかは難しい面があります。
例えば酩酊は罪です。
で、禁酒法作ったらどうなった?
でも、確かに酒はアルコール依存症という病を引き起こすから、たぶん近いうちCMは難しくなるんじゃないかとワタクシなんかは考えています。
煙草のように。
飲酒一つとっても、クリスチャンもその派によって全く飲まない派もあれば、許容してる派もあります。
あとは「〇〇を食べてはいけない」というたぐいのことですね。
これは新約聖書で「食べてはいけない」とされていたものをキリストの弟子の一人が神様に示されて夢の中で「食べなさい」と言われる場面があって、だからキリスト教国では食べ物に関するタブーはあんまりない。
でも、旧約聖書では厳格だから、聖書のどこに忠実に生きるかによって信徒の指針もばらばらになる。
「各個人が直接神に聞いて、神に従う」のが現行のプロテスタント教会の大体の指針であるとは思います。
とはいえ、まあ、なんと言うか、実現できもしない理想主義的な信仰生活は、若い頃は熱心にそれを求めていたと言えるんです。
でも、最近は「理想通りにはいかない人間」にほとほと疲れたと言いますか。
教会生活では最近は、私にはそういう変化がありました。
このブログが少々、教会に批判的な視点を持っているのはそのためです。
でもワタクシはそれでも神の救いを信じていますよ。
( ̄▽ ̄)
でも宗教に超忠実で、息苦しい社会もしんどい。
女性の教育の機会が奪われたりするのも、同性愛の方が「罪」に悩む社会も、それはそれでどうなのかなと思う。
イエス様の愛の精神の実践はどうなるの?
と、思っちゃう。
仔羊おばさん