風通しのいい人生

クリスチャンライフについて語る、祈る。

最近の正直な思いと「クリスチャンと娯楽」

なぜでしょう?

4月1日に謎の「アクセス数爆上り」がありました。

長らく更新せずにほったらかしていたのに、ありがたいことでございます!

<(_ _)>

 

長らく更新できていませんが、ネタがないわけではありません。

私自身、主には統合失調症の次男のことが原因で、ここんとこ落ち込み気味です。

 

クリスチャンは何が起きても「感謝です」みたいな感じで、ワタクシもまあ、もともとはそんな感じのクリスチャンであるのですが、いやまあ、では皆さん、ご自分のお子さんが統合失調症になって、人格が豹変し、「人間が壊れる」のを見続けて、それでも「感謝」と言えるなら、ぜひそうおっしゃってください。

ん?

なんか複雑な言い方したな。

ワタクシは、20代も後半になって本も読めなくなり(認知機能の低下。中学のころは文庫本読んどったのに……)、「嘘ついたやろ」とか「なんで騙したん?」「そっちが騙したんやろ」みたいに親を責めるようになり(被害妄想の症状)、イエス様の罪の贖いなんかも理解できんから(理屈は理解できなくなってる)いつまでも過去の罪に苦しんでいたりする次男を見て、あー罪とか教えなかったら彼はこんなに苦しまずに済んだのかもとか後悔したりもするのです。

で、神様の愛なんかここ3年は感じません。

感謝はあるんですよ。

医療にも恵まれてます。

夫にも恵まれてます。

経済的にも恵まれてます。

一人で行動が難しい時期にはワタクシにくっついて教会にも来るから、それって神様の恵みかなとも思い、病が必ず悪いこととも言えんのかなと考えたりもします。

いろいろ祈りの中で感謝することはあって、感謝はしてます。

今日も桜の木の下で感謝した。

でもどうやろう。

神は愛

という言葉に素直に「そうです!」と答えられない自分がいるのは事実です。

辛いもんは辛いんです。

「ほんと、感謝ですー」とか口にすると、それって「嘘」なんです。

 

伝道もしましょうと聖書に書いてあるのは事実ですよね。

けども、つくづく思うに現状、自分の親兄弟、息子含めて伝道なんてすると逆効果で、私と接点を持ちたがらなくなる可能性が大きい。

そんなこんなで最近は「伝道」と聞いてもなんか冷めているのが現状で(こういうの、専門用語で「不信仰」といいます)、そうなるともう、何聞いても「もう疲れた」「無理なもんは無理」「しんどいだけ」と、心が叫ぶのです。

くどくど書きましてすみません。

そんな状態ではありますけれども、本日書きたいのは「クリスチャン生活と娯楽」についてです。

キリスト教はしばしば「貧者の宗教」と言われたりすると思うんです。

エス様が救いに来られたのは罪びとのためです。

聖書を読むとそうなんです。

で、金持ちとか地位の高い人とかはあんまり救いの対象ではないという感じ。

金貸しの「ザアカイ」という人が新約聖書に出てきます。彼は不正に税金を取り立てている罪びとでしたが、イエス様に出会って「不正に取り立てた税は4倍にして返す」と悔い改めます。

また「金持ちの青年」には、イエス様は「天国に入りたいなら全財産を人に施せばいいのじゃないか」と返答され、その金持ちの青年は悲しそうに去って行った、という記述があります。

今の日本では、相対的貧困に陥っている方(ざっくり言うと平均的な年収の半分以下で生活している人)は大勢いますが、絶対的貧困に陥っている人(1日2.15ドル以下の収入)はそう多くありません。

教会に集っている多くの信徒さんで、かなり貧乏に近い方は、ですからきっと「天国に近い」方々です。

 

しかしまあ、聖書的な基準で言うと、今やかなりの数の日本人が(クリスチャンも含めて)経済状況においては聖書に登場する数多くのイエス様に救われた方々よりも恵まれているといえるでしょう。

そんなわけで、聖書を読む限りでは「クリスチャンが娯楽を楽しむ」は聖書の前提にないんじゃないでしょうか?

また、貯金のあるクリスチャンに「天国に入りたかったら一切合切神にささげない」とか言われたら、聖書の青年同様に悲しげな顔でイエス様の元を離れるしかないクリスチャンは少なくないと思います。

実際、ワタクシ自身がそうです。老後の資金こつこつためてるもん。

 

で、聖書を読んでも、下記のような質問に対し、明確な答えというのが出てこないと思います。

例:

クリスチャンは流行の音楽を聞いていいのか?

クリスチャンは聖書以外の本を読んでいいのか?

クリスチャンは娯楽を楽しんでいいのか? ←これが究極の質問

旅行を楽しんでいいのか?

ファッションを楽しんでいいのか?

 

聖書を厳密に解釈するなら、確かにキリスト教は熱心に働くことを肯定してるし、金を稼ぐことについて悪とはしていない。

とはいえ娯楽を肯定する、少なくとも「生まれてきたからには楽しく遊べ」みたいな記述はないと思います。移動は伝道のためか、羊を養うためで、楽しみのためや視野を広げるためではない。行先は神様が示すところ。

恵みや祝福を否定する要素はないものの、一方で「じゃあ、稼いだ金でこうしろ」ということになるとそれは「施し」になるかな。

使徒の働き」というイエス様が点に昇られた後の初代教会の記録によると「信徒集団で共有」が肯定されています。

「個々で楽しめ」なんかない。

 

で、実際にプロテスタント教会に通い続けて38年のワタクシにとっても、この

クリスチャンと娯楽

については常に迷うところでありました。

猫 娯楽 に対する画像結果

流行の音楽について、聖職者(牧師さん方)は聞くことを肯定はされないと思います。

けれどもがんじがらめに「絶対に聞くな」と教えられることもありません。

難しいです。

日本はクリスチャンが絶対に少ない社会ですね。

だから、流行音楽を職業にしてる人でクリスチャンというのはすごい少数ですけど、アメリカとかは圧倒的にクリスチャンが多い社会で、著名ポップミュージシャンがクリスチャンだったりします。本当の意味で信仰心を持ってるかどうかは別の話として、ともかく「クリスチャン」仲間なわけです。

「兄弟姉妹」とクリスチャン同氏は呼びあいますね。

「兄弟姉妹」がポップミュージシャンだったら、その兄弟姉妹が作った音楽は聞かないのか?

ん-。大問題ですなあ。

教会や聖書的には、流行の音楽を作ることが神様の御心にかなうことなのかどうか、特に記載はないと思います。

そういや、ミリアム(モーセのお姉さんだっけ?妹だったっけ?)が踊った、という記載はあったし、ダビデも「踊った」という記載はあったね。ということは……

うれしい時には踊る。

というのは自然の成り行きでオーケーなのね?

ワタクシ自身の体験では、35年前くらいは牧師さんたちは流行の音楽を聞くことに対しては否定的でした。

台湾に2年住んでたんですけど、当地のクリスチャンにそのことを聞いたら「どうしてクリスチャンは音楽を自由に聞いたらいけないの?」と怪訝そうな表情でした。

でもきっとそれって教団・教派によっても違うんじゃないのかなと思います。

その後、新聞で「親が牧師で、ポップミュージックを聞くのは家では禁止されてた」と発言するポップ・ミュージシャン(アメリカ出身だったかな?)の記事を読んだこともあります。

なので、国による違いというより、教団教派によって異なるのではないでしょうか。

ワタクシ自身は流行の音楽は好きだし、テレビっ子でテレビはいつもつけっぱなしの生活を送り続けています。

これも、神様以外のものが生活の中心になっている、「テレビが神様になっている」とみる教派もあって(ワタクシ自身がその教派の牧師さん一家と親しくさせていただいたことがあります)「テレビで〇〇が見たいから早く家に帰りたい」なんて口にも出せない雰囲気の教派もあります。

その伝で行くと、家の家具配置の中心がテレビになっていて、家族がテレビを前に集まる風景が、「テレビが神様になってませんか?」と問いかけられます。

飲酒についても、教団教派によって全く異なります。

ある教派はちょっとくらい楽しく飲んでもいい。

ある教派は飲酒×。

ちなみにワタクシの所属教派は飲酒ダメで、ワタクシも受洗と同時にお酒はやめました。でも、それに関してはよいことずくめで、むしろ自由になった感じが強く、禁止も悪いもんではないと思います。

「自分は飲まない」と決めたら、酔っぱらって失敗することもない、それで体調崩すこともない、時間を無駄にすることもない。お酒をやめたことは一切後悔はないな。

( ̄ー ̄)

聖書では酩酊は禁じていますが、イエス様が最初に行った奇跡は「水をぶどう酒に変える」だったもんな。

 

また、聖書には「内面を飾りなさい、外見は別に」みたいな記載が旧約にあったと思います。

まあごちゃごちゃ書きましたが、聖書の世界はいわゆる「消費社会」ではないようで、大抵の庶民は貧しく(今日的な視点でね)、医療は発達しておらず、娯楽はあまり視野には入っていない感じです。

でも「遊女」の記載はあるから、「女遊び」はあったのね。

 

だから、今の日本の普通の生活は「享楽的」といえそうです。

 

どんなに困窮していても迫害に遭っても

「いつも喜び、絶えず祈り、全てのことに感謝しなさい」(新約聖書の言葉です)というのが聖書の根本的な精神かな。

とすると、今のワタクシのように嘆きの中にいる時にこそ、この聖書の言葉は意味を持つものだと言えるでしょう。

自分に嘘をつくことはできませんが、こうして考えてみると、なりふりもかまっていられない、生活に余裕もない、健康的にも不安がある、そういった人に寄り添うのが聖書の言葉であり教えであると言えそうです。

 

結局「クリスチャンと娯楽」というテーマで言えば、別に娯楽を楽しもうがどうしようが、それについては聖書の問いかける人生の対象外、と言えそうです。

旧約聖書に出てくるソロモンが大金持ちの一例になるのでしょうね。その彼の発言は

「空(くう)の空(くう)。一切は空(くう)である」。

禅問答のような境地に至ってます。すべてがむなしい、というわけです。

だから、貧しさにあっても豊かさにあっても、人の人生の意味も苦しみも変わらないから、そんなことどっちでもいい、というふうに考えたほうがややこしくなくていいのかなと思います。

高い食べ物を食べようが、モヤシ炒めで今日の1日をしのいでいようが、別に変らんやん。

( ̄ー ̄)

という境地なのでしょうか。

 

結論1.娯楽をクリスチャンが楽しんでいいかどうかは、別に聖書の規定はない。

    ただし、享楽的な生活を推奨はしていないから、祈って判断しよう。

    聖書に厳格に従うなら、全財産・全時間は神様に与えられたものであって

    自分のものではない。

結論2.聖書は悩み苦しみ悲しんでいる者へのメッセージである。

 

仔羊おばさん