またも、4月30日に謎の「アクセス数爆上り」がありました。
このブログは、キリスト教関連でありまして、読者も少なく、ただクリスチャン歴39年(になったかな?)のワタクシこと「仔羊おばさん」が、教会生活や献金について、またクリスチャンライフについて
本音で
語っているものです。
お読みいただきありがとうございます!
<(_ _)>

毎日しつこく聖書を読んでる割には、大してみ言葉(と、聖書の文言のことをクリスチャンは呼んでいる)も覚えていないし、こんだけ教会生活が長いとさすがに教会生活の嫌な面も見てきてしまっている(良い面の方が圧倒的に多くてもネガティブなことがちょっとでもあるとそれが忘れられない人間の性さが)。
で、ついつい本音や真実を「感謝です」的な言葉を抜きに書いてしまうもんだから、同じ教会の仲間にも家族にも誰にもこのブログのことは内緒にしています。
( ̄▽ ̄)
ハハ
でも、教会に通うことを辞めていない、ということだから、やっぱクリスチャン生活と教会生活は悪くないとワタクシは思っています。
ただ、若い頃と違って、それなりに苦労も重ねてくると、人間、ひん曲がってきたりするということなんだと思うんです。
ワタクシも若い頃は、教会や聖書の言葉に対し批判的なものの見方をしている方のものを読んだりすると、「どうしてこの方はこんなことを言うんだろう?」と思い、
きっと救いが十分じゃないのかな。
この方に救いがありますように。
と、思ったり祈ったりしたものです。
だけどもこうして年を重ねてきてみると、信仰とは大危機だけじゃなく、「人間だもの。完璧はない。」てなことで、仮に神様からの完全な愛が注がれていたとしても、自分には苦しみもあり悲しみもあり、絶望もある、ってことなんだと感じます。
クリスチャンだけが永遠に生物学的な死からまぬかれる、ということでもありません。
クリスチャンだけが、辛い治療の痛みがましになるということでもありません。
確かに、心に平安が与えられていれば、痛みもましになるでしょうけど、その平安も神様が与えてくださるものなのだから、与えられるかどうかはわかんないわけです。
与えられるまでは苦しむことには変わりないです。
痛みに耐えられる、耐えられないは人によるし、痛みを感じないように努力することは自分でできること。
でも、神様から平安が与えられるかどうかは自分でコントロールできない一つのことです。
しんどいねん。
つらいねん。
は、しかたがありません。
信仰心も、
えいやっ

と気合を入れれば出てくるもんでもありません。
今の自分はそんな感じです。
もう教会メンバーや牧師さんや牧師夫人の何かに翻弄されるのも嫌だとワタクシは考えているし、子供も教会から離れ信仰から離れするのを見てると、
ああ私はあかんクリスチャンやねんなあ
と、自分を裁くこともついついしてしまいます。
そういう劣等感も感じるんです。
悪循環ですね。
なんか、もうちょっと明るくのびのびと信仰生活を送りたいです。
喜びを持ちたい。
それが本音ですかね。
だから、ワタクシが常々感じるに、自分が幸福感あふれてる時はいわゆる「霊的」に充実するけど、そうじゃない時は「信仰なんか勝手にやってください」みたいに思っちゃうから、本当の意味で「どん底でも喜べる」くらいの明るいのびのび感がクリスチャン生活にほしいです。
で、それについて、それをえるのは自己努力なんか?
というと、それも
神様から与えられるもの
と考えれば、与えられない限りワタクシは苦しみの中におるわけです。
よって、皆様、
信仰的でないこのブログの内容、どうぞお許しください。
仔羊おばさん