さて、人とは何か?
その定義はなかなかに重要です。
キリスト教(プロテスタント)の「人」のとらえ方を知った時、ワタクシは「目から鱗」という表現がぴったりの体験をしました。
まず、クリスチャンというものは、自分の罪を認め、悔い改めてイエス様を救い主として信じれば、その人はクリスチャンです。
もちろん、形式的には教会あるいはどこか(病床でもどこでもよい)で洗礼を受ける、ということをしますけど、極端な話「うそついて洗礼だけ受ける」それがクリスチャンなのか? というと、やはり真実はどこか?となります。「うそ」で洗礼受けても、その人は真実クリスチャンとは言えないんじゃないでしょうか。
聖書を読むと、悔い改めは「心から」に限られてる感じがします。
聖書に、「誰でも聖霊によらなければイエスを主であると告白できない」という文言があり、実際、こうして40年近くクリスチャン生活を続けてきて、それって本当だな、って納得するところがあります。
で、「人をどう定義するか」なんですが、若い頃YMCAで日本語教師をしたとき、

このマークについて説明を受けました。
SPIRIT
MIND
BODY
の3つが人間を構成しているというのが、その考え方です。
で、YMCAという組織は、その3つを健康に健全にすることを目的に各プログラムがあるということでした。
なるほどーーーーーー。
BODYは肉体・体ですね。で、スポーツのプログラムがある。
MINDは精神とか心とか訳されます。「健全な精神」を養うということで、言語(相互理解のツール)や読書、教養を高めるための様々な座学プログラムがある。
SPIRITは、「精神と肉体」以外のもので、ワタクシが学校教育を通して理解してきた「人間」にはないもので、今に至るもワタクシが完全にこれを理解したかというと、実はちょっと曖昧だったりします。
けどもこのSPIRITなるものが、ヒトと動物を分けているものでもあり、「神への信仰の有無」を生むものでもある。
SPIRITは聖書的には「霊」と訳されるものですね。
一般的な言葉では「ファイティングスピリット」なんかに使われます。
精神や心ともちょっと違っていて、でもなんか、「心」の領域にとっても近い印象です。
なんやろう、神様とのチャンネルになる心の精神の奥底にある何かのもの、と言えるでしょうか。
「善」志向で生きる時に、現れてくるピュアな思い、とも言えるだろうし、人が生まれたり亡くなったりする時に、なんとも厳粛で時が止まったように感じる思いを生じさせるもの、理屈ではわからないけど、ヒトが自らの使命を悟ったり、無限の命を感じたりする時に出てくるもの、あらゆる感情を越えて出てくる思いみたいなもの。
そんな風にとらえることができるでしょうか。
心の健康とこのSPIRITの健全性は関係があり、なのでYMCAではチャリティーはじめ社会奉仕プログラムがある、ということでしょうか。
上記3つは不可分なものとなります。
また、キリスト教では神様も三位一体という、摩訶不思議な説明で神様・イエス様・聖霊様の3つが一つで「神」だという。
なんとなくよくわからないかもしれませんが、聖霊の存在をどんな時に感じるかというと、ワタクシの体験では、非常に素晴らしい讃美歌を大人数で歌い上げた時に、そのホールに雲のように神様の存在を感じたことがあります。
また、信仰生活を送っていくうちに、たまには(ワタクシのような不信仰者にも)神様が隣にいてくれるような感覚を覚えることがあったり、また、教会の座席に座っている時に雨のように祝福が下りてきているように感じたり、そういう体験をしたことがあります。
クリスチャンじゃなくても、不意に空を見上げて神様を思う時に聖なる気持ちを感じたなら、それは精霊の働きによるものかもしれません。
とはいえです。
聖霊は目にはっきり見えません。
だから、他の人から見て「あああの人のところに聖霊がいる」みたいにはわかんないわけです。
それが、教会生活において、たまにトラブルに発展します。
そもそも「霊的な」人……神様に近い人? 神様に近づこうとしている人? 常に祈りを欠かさない人? は、聖霊のように自由であって理論で動きません。
聖書を読めば、「霊的な」最たる方であるイエス様の一挙手一投足に翻弄されている弟子たちの姿を読み取ることができます。
魚が取れそうもない時間に急に「漁に出よう」とおっしゃったり、律法違反である「安息に病人を癒す」ということをして、「何が悪い」みたいなことをおっしゃったりしています。
きっと弟子たちは驚いたでしょうね。

これと同様なことが、今日の教会においても「霊的な」人と、そうでない信徒との間に起こってしまいます。
例えば、(「例えば」です。ワタクシが必死に考えた嘘の話です)とある教会に、ただの一人も子供がいないので、日曜学校(子供クラスともいう)がない状態の教会があったとします。
そこで、牧師あるいは牧師夫人あるいは宣教師あるいは伝道師の方が、「日曜学校を再開します。再開にあたっては子供が来ても来なくても担当者は必ず子供が来る前提で毎週準備してください」とおっしゃったとします(強調しますが、仮定の話ですよ)。
これ、世の中の会社や組織なら、「この地域には〇〇人の子供が住んでて、日曜の自由時間は平均▽時間あります。そして、調査では日曜に子供を教会に送りたいと考えている保護者が◇人いるそうです。チラシ配布やポスター掲示をしたら、毎週□人くらいは日曜学校に来るはずです」と、具体的な見込みを言ってもらわないとひら社員も心から納得してその仕事はしないでしょう。
教会員でもそういう信頼できるデータがないと、心の中で納得しない可能性大です。
ただ、ここで「霊的」というのが教会だと(クリスチャンの集団だと)出てきます。
信仰に立ってやりましょう。
というわけです。
勝算もなんもなく、鶴の一声で決まる。
( ̄ー ̄)
教会幹部の方が常識的に反対意見をおっしゃる場合もあるでしょうね。
だけども、ここで「霊的な」人が
神様に示されました。
とおっしゃるかもしれません。
もしかして本当に神様の指令かもしれない。
でも、「神様に示された」と、その方が錯覚してるのかもしれない。
受け止める信徒にしたら、特に「聖霊って何?」くらいの凡な信徒にしたら、そう言われてしまったら、なんか反論できない。
おまけに日本の教会だと(これは私見ですが)、結局日本人の形成する組織は日本的なので、「上意下達」で下の立場の者は上の立場の者に従わなければならない構造が教会においても機能してしまいます。結局は従うということが起こります。
「霊的」な人は理屈や常識で動く者には厄介です。
その発想や実行が、本当に神様からでたものなのか、それとも単なる思い込みなのかについて、他の方にはわかりません。
で、実行した結果も先のことだからわかりません。
実を結ぶのかどうか、あるいは目に見える結果が出なくても、最後に「やって良かった」といえるのかどうか確証はないわけです。
それこそが「信仰」でしょう。
ということなのですけど、さほどの信仰も持ってない信徒にしたら、理解や納得は難しい。
で、納得してなくてもその通りに下の者は行う。
で、疲れる(内心の不満を抱える)。
疲れがたまる(内心の不満がたまる)。
不満を取り除いてくださいと祈っても、たまるもんはたまります。
たまると「あー私はダメやな。従うことができない」と罪悪感を持つ。
教会ではよく、「そんな経験を通じて神様は私の傲慢を砕いてくださいました」みたいな発言を聞いたりします。
まあそれも一つの訓練なのでしょう。
でも、霊的でなく「人間的な」者はその訓練の最中に「なんでこんな理由も根拠もないことに自分は巻き込まれんといかんのやろう」と思ったりするのです。
一般企業でもワンマン会社だと似たようなケースはあると思うんですけど、教会だと給料はいただかないですからね。
「奉仕」ですから。
そこは決定的な違いです。
結論と言いたいこと:
聖霊様ないし神様に従うと思いもよらない恵みが待ってる場合もあるので「霊的な」人の発言に従う場合がある。
ただ、それが本当に神様の御心なのかどうか他人にはわからない。
また、従う信徒にとって実は納得してない場合がある。
そしてその後「従ってよかった」と思う場合もあるが、不満をため込む場合もある。
宗教の世界では、理屈に合わないことが起きてきます。
たぶん、宗教というものはそういうものなのでしょう。
宗教の宗教たるゆえんです。
理屈や根拠だけで教会は動いていない。
でも、「霊的な」人に翻弄される信徒も現実にいて、翻弄されたあげく失望してしまって教会を離れるケースもあります。
こんなに信徒が少ないのに残念なことです。
だから、信徒としての立場から申し上げると、心から納得もしてないのに奉仕を受けるのは考えるべきだし、本当に信仰に立てるのかどうかは慎重に判断をしたほうがいいんじゃないでしょうか。
信仰生活、疲れすぎないことが大事です。
SPIRIT
MIND
BODY
は連動しており、肉体が疲れる時、SPIRITも疲れてしまうのが人間というやつなのです。
MIND的に「鬱」状態の場合、BODYもSPIRITもうまく働かなくなるのが人間ということです。
仔羊おばさん