風通しのいい人生

クリスチャンライフについて語る、祈る。

一般クリスチャンが見る山上徹也被告の裁判③「いたしかたない」しかない。

さて、安倍元首相を殺害した山上徹也被告に判決が下った。

まだ裁判が続く可能性もあるけど(来週上告するかどうか決めるらしい)、今日、一度ブログに書いておきたい。

 

まず前提として、旧統一教会(世界平和統一家庭連合)の高額献金問題や、キリスト教の異端である(すなわち「カルト宗教」であること)は、一般クリスチャンはもう40年以上前から知っている事実でありました。

少なくともワタクシが、この問題に取り組んでいるキリスト教の牧師の話を聞いたのはかれこれ35年ほど前のことです。それに、教会にいたら「もと統一教会員です」という人や「家族が統一教会で困ってます」という人に遭遇することも珍しいことではありませんでした。

だから、この事件で世間が大騒ぎした時は「何をいまさら」と、思いました。

猫 今更 に対する画像結果

 

とはいえワタクシもいち国民でありますから、安倍元首相が狙撃され亡くなったことについては、「そりゃ世界平和統一家庭連合との関係は不適切だと思う、でも、では『殺されなければならないほど罪深かったのか?』というとそんなことはない。もっと悪どい政治家はいるはず。突然命を奪われた安倍首相はかわいそうすぎる」と、思いました。

いや別に、それが元首相でなかったとしても、ともかくある人が突然誰かに殺されたら、本当に自然に同情します。

まして、山上被告が恨んでいたのは世界平和統一家庭連合であって、日本の元首相ではなかった……。

 

そして、今、とりあえずの判決が無期懲役となったわけですけど、これについて、平凡だけど「いたしかたない」としか言えない。

 

例えば、殺されたのがワタクシこと仔羊だったとして、では、それで判決は変わるか?

安倍元首相は30回以上もプーチン大統領と会っていた人物だった。そう考えると、彼が生きていたら、ウクライナとロシアの戦争をより早く収束に向かわせることができていたかもしれない。何もできなかったかもしれないが、少なくとも仔羊よりはその可能性が高い。

そう考えると、安倍元首相の命は世界にとって(少なくともウクライナに平和が訪れてほしいと考える人にとって)仔羊の命より大切だ。

だけども、「この一人の命はほかの命より大切だ。だからこの被告の罪はことさら重い」とすることは、今の世の中では間違った価値観だと思う。

つまり、安倍元首相の命とほかの方の命は同等だ。

だから、被害者が元首相だったということは切り離して考えるしかない。

 

一方、山上被告の境遇についても、下記のように考えたらどうなるだろうか。

とある人の親がアルコール中毒(依存症)や薬物依存やギャンブル依存で全財産使い果たしたとして、それで進学ができず生活に困窮したとする。

アルコールを製造や販売してるやつ、薬物を売っていたやつ、パチンコ屋やマージャン仲間を恨みに思ったとする。

で、じゃあ、そういった者を「殺してやる」と考えて、計画して、殺したとする。

悪いのは親だ。アルコールだ。薬物だ。で、関係者を銃で撃つ、例えば社長とか。被害者は亡くなってしまった。

情状は酌量されてもいいけど、被告は仮にも40代だ。年齢は関係ないかもしれないんだけど、現実、20代の若者とは違う。

親は恨んでもいい。

いいけど、じゃあ、「自分の人生をめちゃくちゃにしたのは〇〇だ。だから殺してやる!」と決意して殺した40代の人の刑を軽くすることはできるだろうか?

「同情すべき点はある」

確かに、ある。

アルコールでもパチンコでもあると思う。

例えば親が経営者で誰かに騙されて倒産して人生がめちゃくちゃになった。

それは被告のせいではないから、確かに同情すべき点はある。

でも、じゃあ、だからといって罪を軽くすることは適切なのか?

世の中には不遇な生い立ちで育つ人もいるけど、じゃあ、だから人を突然殺してもいいことにはならない。

 

多くの識者が「これでいいのか?」と疑問を投げかけている。でも、同情されるべき境遇で育った人は数知れない。

 

この宗教の問題性に気付いていながら、なんで今まで放置していたの?

国が悪い。

と、考える人もいるんだろうけど、じゃあ、歴代の政府関係者(特に宗教法人を管轄する部署の)の罪は問えるのだろうか?

彼らの罪を問うにはまた別の裁判が必要になりそうなんだけど、そこの議論はみんな全く気にしてないみたいだから、おかしいなとちょっと思う。

 

結局、今回の判決は「いたしかたない」と言うほかない。

ともかく、とある人が、とある人を意図をもって突然殺した。

それしか言えない。

みんなが注目してるからという理由で刑が重くなったり軽くなったりするのは望ましいことではないから。

 

そして、一般クリスチャンとしては「キリスト教が人の幸福に結びつくものであってほしい」それに尽きる。

だから、結局、最大多数の最大幸福を実現することが善なのではないかという結論に至るのだ。

これは、聖書の世界観と矛盾するのだけど(聖書では人々の幸福より神様の御心がイチバン)、やっぱり「幸福な人は殺さないし盗まない」ということは言えてしまう。

 

でもきっと、なぜ神を信じるかというと心の平安がほしいからだし、幸福になりたいからだと思う。

素直に、そうなんだと思う。

 

仔羊おばさん