ふー!
長いタイトルになりました。
タイトルの説明をします。
クリスチャン歴35年を過ぎました。
献金もしてきました。
この「献金」について、どうも世間の報道などに触れるにつけワタクシは違和感があるのです。
キリスト教における「献金」とは、「献金」だけにフォーカスするもんじゃない、と強く感じています。
「献金する」ということはその前提条件として
「献金できるお金」を持っている
ということですよね。
もっと言えば
恵まれてる
ということですよね。
今回はキリスト教の、その「恵み感」というか「積極的金儲け感」というか、
あるいはそれは
才能発揮にまつわるエトセトラ
と呼んでもいいものだと思うんですけど、それについて言及することになります。
「聖書の言葉」から始めます。
また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕(しもべ)どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。
すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。
五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。
二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。
しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。
だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。
すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。
主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。
二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』。
主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。
一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。
そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。
すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさないところから集めることを知っているのか。
それなら、わたしのお金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。
さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。
おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取りあげられるであろう。
この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。
マタイによる福音書25章13節~29節
この聖書の言葉をどう解釈するか、それなりにいろいろあるはずだと思いますが、まあ通常は「ご主人様」は神様で、僕(しもべ)は我々信徒、ということです。「人」と解釈してもいいと思います。
そして「タラント」とは英語の「タレント」の語源として知られていて、「才能」と解釈することができます。
このたとえ話はそをれぞれがそれぞれに渡された「タラント」=才能をもとに
もっともうけた人がほめられ、
土の中に隠しておいた人は罰をうける(追い出される)、
というストーリー仕立てです。
そう。
この聖書の個所から一つわかること。
それはキリストの教えは
いけいけどんどん
な側面がある、ということです。
また、このたとえ話においては、五タラント渡された人は、ちょうどその五タラントくらいはもうけられる、という前提もあるのかなと私なんかは思っちゃいます。
余談ですが、私は生まれて初めてこのたとえ話を読んだ時(クリスチャンとなるずっと以前の10代の頃)一タラントを地中に埋めておいた人もほめられるんじゃないかと考えていました。だから、ご主人様にそんなに怒られるなんて想像もしませんでした。
だって能力的に「一」なんだから、とりあえず自分にできることとして「なくさない」という選択をしたのは正しいんじゃないかと思ったんです。
ところがです。
このたとえ話は
能力を活かさないのはもはや罪
という価値観です!
ワタクシは、そう最近でいえばアメリカのトランプ前大統領が再び大統領選に名乗りをあげるなんて
としか思えません。同じクリスチャンのアメリカの人たちの多くが彼を支持してるのもかなり理解に苦しむところなのです。
しかし、「能力を活かしてチャレンジしないのは罪」そういった土壌で育つと、その行動も不思議じゃないのかもしれません。
また、パラスポーツの創始者とされるグッドマン医師の
失ったものを数えるな
残された機能を最大限に活かせ
という言葉も思い出しました。
彼らがキリスト教信仰に基づいて生活しているかどうかは不明ですが、キリスト教的な土壌においては、
こういった積極的な生き方というか
生き生きとそれぞれが能力を発揮する
というのが是とされるキリスト教的価値観を感じることができます。
「献金」を「ほかにもうけた五タラント(あるいは二タラント)」と考えれば、キリスト教でいう献金は
元手は神様から渡されたもの
で
もうけは主人が帰ってきたら喜んで持って行って
こんだけもうけた!
と嬉しい報告をするもの
ととらえることができます。
そして、もうける段階ではそれぞれの僕のチャレンジ、頑張り、工夫などがみられます。
言いたいのは、「献金」それだけが単独でやるべきことリストに載ってるのではなく、
神様を愛し人を愛す人生を生きる。
自分に与えられた(渡された)才能やチャンスや時間やお金を活かして生き生きと積極的に生きる。
そして更に得たお金やなにか「これぞ祝福だ」と思えるものを神に感謝する。
その中に捧げられるものがあるなら
喜んで捧げる。
それが献金というものの本来なんじゃないでしょうか。
献金を奉げるその前に、祝福された人生を生きる。
というのが抜け落ちたまま、「教会の献金は3種類あるよ」とか書いてきましたが、どうにもそれには違和感がありました。
で、最後にもう一度強調したいのですが、
「献金について牧師から言われた。なんかあやしいからもう教会に行くのはやめよう」とか思うくらいなら、牧師に「献金は自分はいまはまだよくわからない」とはっきり答えて、信仰を持ってみるという選択をしていただければと思うのです。
借金抱えて食うや食わずの人に献金を強要するなら、そういう教会は私の目から見てもヤバいです。
普通は「それでは借金返せるようにまず一緒に祈りましょう」とか
「転職を考えているなら、いい仕事に巡り合えるように私も祈ります」とか言ってもらえると思います。
相手に対する
愛は…… そこに愛はあるんか?
仔羊おばさん