さて、現役プロテスタント教会会員であるワタクシが献金について説明するシリーズを書いてきました。
10回くらいでネタが尽きるかと思いきや、書き始めてみるとあれもこれも……
と、思うところが出てきて、あと5回くらいは悠々書けそうです。
今回は、どっちかというとクリスチャン向けになります。
だけど、クリスチャンじゃない方も視野に入れて、わかりやすく書いてみようと思います。
ワタクシは洗礼を受けて、わりとすぐに献金について聞きました。
昔のことで、だれが説明してくれたのか忘れましたけど、牧師婦人だったか?
それともほかのメンバーだったか?
洗礼受けた人は「教会員」なんだから「会費」について説明があるのがまあ考えてみりゃ当然なんです。だけど、受洗前に説明すべきかなと思います。
少なくとも「会費」ならばそうですよね。
ところが、教会では「会費」なんて言い方はしない(そういう捉え方をしていない)し、「十一献金」は会費なのか?
というと、いや「そうではない」ので、いたってわかりにくい。
( ̄ー ̄)
洗礼受けてクリスチャンになったら、会費みたいなもんがあるよ。
って言ってくれたらわかりやすいんだけど、そうするときっと洗礼受けるのをやめる人が増えるからかな?
(。´・ω・)?
たぶんそうでしょうね。
でも、ワタクシはクリスチャンになりたての頃は、「救われた」そのうれしさで世界がそれまでと全く違ってきらきらしていて、まっさらの人生にワクワクしてましたから、献金くらい大したことなかったんです。
考えてみりゃ、救いのない人生を歩んでると仕事が終わると酒飲んでうさを晴らすとか、人の悪口をぐちぐち言うのに人とつるんでみたりとか、温泉巡りや旅行にカネを費やしたりするわけで、別に献金せんからといって金を使わないかというと、そうでもないんです。
まだ結婚もしてない独身だったしなあ。
少なくとも私はそうでした。
で、軽々とワタクシは「献金ハードル」を飛び越え、クリスチャン生活に突入しました。
でも席上献金は小銭をちゃらちゃら入れていたりして(18円とか56円とか余り物のお金)、そんな献金は神の前にどうのこうの、という言及が牧師婦人から礼拝中に皆に向けてあり(すみません、ちょっと皮肉ないい方ね)、
え?あかんかったんか。
( ̄▽ ̄)
と、その言及で知ったりしました。
(その人によると思いますが、敬虔な気持ちが大事ということらしいです)
それ以降は1000円か500円か、どうしてもコインがなけりゃ100円捧げたりしてます。
あとワタクシはやったことありませんが、1万円札を礼拝後に献金係に持って行って「両替して」と頼み、そこから1000円捧げてる方をお見かけしたこともあります。
( ̄▽ ̄)
そういう席上献金に比べると十一献金は収入の十分の一ですからすっきりしてますよね。
だから十一献金は楽だったんです。
でも、洗礼受けてから2年かなあ。
3年かなあ。
献「金」じゃないんだ!
献「身」なんだ!
ってすごく悟ったことがありました。
「献身」って狭い意味では「神様のために身をささげ働く」ことを意味します。
プロテスタントは修道院に入ったりはしなくて(修道院はカトリック)、神学校に行って牧師になったり宣教師になったり伝道師になったりすることを指します。
でも、牧師じゃない一般信徒も「神様に身をささげ生きる」ことに変わりはありません。
洗礼後何年か経ってそういうことに気づいたんです。
仕事を探したりとかする時に、祈って就活もするわけなんです。自分なりの頑張りや迷いや悩み、そして仕事を得るまで頑張ります。
自分の努力もあるんですけど、仕事は神から与えられたものになります。
仕事を得たら上司は神によって立てられた人ですから、指示通り頑張ります。だけども絶対じゃなくてあくまで神の前に従えるなら、ってことで。
でも、それもこれも「神の前に生きる」ってことなので、一般信徒だから献身はしてないってことではなくて、一般信徒でも神の前に生き、神のために生きるということには変わりがない。
聖書はおんなじ聖書なんですよね。
誰でもどの立場でも聖書の真理は変わらんわけで、聖書に従って生きるとは、別に牧師でも一般信徒でも一緒です。
なんか、そういうことに思い至った時、思ったんですね。
献「金」じゃない。
献「身」なんだ。
と。
そもそも貨幣経済じゃなかった頃なら教会のどこかが傷んだと言えば修理をしたり、牧師さんにできた作物を持って行ったりしてたんじゃないでしょうか。
ちょっと例えは違うかもしれませんが、地震や災害で被災した方のために募金をする、という方法もあればボランティアに行って泥のかきだしやお手伝いに行く、という方法もあります。
どっちかがよりよくて正しいのか、という論理じゃなく、どっちも必要だしどっちも大切な働きです。
例えば日本国内なら直接ボランティアに行ける方でも、遠方の、例えばトルコ・シリアとなると募金しかできないというケースも多いですよね。
とにかく被災した方のために何かしたい、という思いがあって、それがボランティアにつながったり募金につながったり、あるいは同様の被害を出さないために何ができるかという提案をしたり、ということだと思います。
「思い」が大事だと言いたいんです。
神様に対しても、神様を愛することが大事で、神の国と神の義を第一に求めることが大事だと聖書に書いてありますよ。
結果、
献金する人もいるだろう。
教会の働きのために体を動かす人もいるだろう。
教会メンバーのために祈る人もいるだろう。
宣教する人もいるだろう。
もっとささやかに、人に対して優しく接することを始める人もいるだろう。
具体的に何をするかは違っていても、心の思いはそんなに違ったものではない。
だから、その思いがあってはじめて、献身してるからこその献金なんだと気付きました。
これに気づくのに個人差あると思います。
受洗時にすでに悟ってる人もいるだろうし、10年経とうが20年30年経とうがわからん、という人も考えられます。
死ぬまで理解しない人もいるでしょう。
で、別にそれでいいんだろうと思います。
ちょっと時間ないので聖書をここに写すことはしませんが、イエス様と一緒に十字架につけられた罪人のうち、救われたほうの一人は
献金したか?
……してない。
献身したか?
……聖書に書いてないけど、きっとしてない。
十字架につけられるくらいの悪いことをした人だもの。
でも、自分のやったことは悪いことなんだと悔いたその人にイエス様は「あなたは今日私と共にパラダイスにいる」とおっしゃったじゃない!
罪を悔い改めたらそれだけで天国に行けるのがキリスト教。
献金も献身も関係ないっちゃー関係ないわけで。
ただ、聖書に従って生きると幸福な人生を歩めるから、その生き方はいいよってことで。
そう。
だからね。
まとめて今日言いたかったのは
献金にはそれなりの聖書的な意味合いがある。実は生き方や価値観の転換なんだということと、十一献金については受洗前にお知らせしといたほうがいいんじゃないかという提案です。
そして、実は献金も献身も救いの条件じゃないので、別に気にせんでいいということです。
(`・ω・´)ゞ
仔羊おばさん