ワタクシは現役プロテスタント教会会員です。
受洗し、教会に通ってなんと35年以上になりました。
その間、献金もしております。
このブログシリーズ「現役プロテスタント教会会員が献金について説明する」は、旧統一教会の献金問題が社会問題化し、なんか「献金」そのものに罪はないのになあ。
( ̄ー ̄)
でも確かに報道で見ると旧統一教会の献金の額とか率とかは比べると高いみたい……。
で、書きたいと思って書き始めてみたわけ。
で、大体のところは書くこともできたし、説明もまあまあ無難なところを書けたのではないかと自負しております。
でも、書いてるうちに、ですね……。
教会側ー牧師、牧師婦人、宣教師、奉仕者、教会の幹部などなどーの方にも物申したい気持ちが出てきました。
では何が言いたいのかと言うと、
1.献金に関しては全体に向けては原理原則の説明を
2.だけど実際の運用に関してはその人その人でゆるくする
です。
十一献金のように洗礼を受けた人が収入の十分の一を捧げる献金なんかは、その人の元気さや健全さや、その人の背景によってばらばらで致し方ないし、教会員もその辺は不公平であっても忍耐することが大切かと思います。
「元気さ」でいいたいことは体力面、精神面などの点で元気であることを指しています。
例えば献金について何を言われても納得できなかったら「納得できません」って言えることもこの「元気さ」によると思います。
人間、こんな元気さを失うことも少なくないですよね。
そんな「元気でない」人に献金の話を原則通りしても、それってどうなんでしょう。
疲れ切ってる状態で献金とか献身とか聞いてもそのメッセージは素通りして終わりだし、それでよいのです。「疲れてる人」こそイエス様のもとへ行ったほうがいい。
献金とかは疲れが癒されてからでいいのでは。
「健全さ」で言いたいことは生活自体しっちゃかめっちゃかでどうしようもない状態の人にこれまた原則通り献金の話をするより、その前に生活を落ち着かせることをまずは目指したらどうかと思ったりします。
たぶんこの辺りがカルトと価値観の違うとこなのかな。
気持ちも生活も落ち着いてからの献金でよいという気がしますが……。
「ヨブ記」読んだって何もかも失くしたヨブが最後に神の言葉に触れて黙するところまで、とりあえず精神的な格闘、神への訴え(それも神の不条理な仕打ちに遭っての訴え)、ともかくもその訴えを吐き出せるだけ吐き出した後でやっと、何かを取り戻すことができて、平安がやってくる。
なんか信仰ってそういう側面もある。
「ヨブ記」の中には献金献身どうのこうのなんて誰も口にしていない。
また、収入を得るまでの苦労も人により様々です。
お金に困っていなくて執着の少ない人もいれば、やっとこさ仕事を得たばかりでこれを逃せば次はもうなさそうな人とでは、献金に対する姿勢が違って当然です。
もちろん宗教は、それでもその中で神に従って人生と闘い、祝福を得るという奇跡の体験もあります。
ワタクシはその奇跡を否定するものではありませんが、しかし人への愛情、思いやりもイエス様が示された博愛精神です。
教会と言う組織は、でも実は上意下達というか、あまり革新的な組織ではないとワタクシは思っています。
カルト宗教でなくてある程度歴史があり地域に定着してる教会なら、むしろそれが安定的でいいんでしょうね。
で、ワタクシも、じゃあ自分の所属教会でこういう考えを誰かに話す機会があるかというと皆無です。
( ̄▽ ̄)
はてブの片隅で読者も少ないゆえに勝手なことが物申せるんです。
まあいや誰も聞いてないのに遠吠えしてるんです。
本来は信仰を持つことも献金をすることもそう悪いことではないはずなのに、
信仰を持つことも献金をすることも何かの悪事のように思われるのが信徒の一人として辛いです。
でも、教会側の方々も献金がきっかけで信仰から離れるというような本末転倒が起こらないようにはしてほしい。
ワタクシの経験では、信仰を持って教会生活を送り聖書を読んで祈っていれば、献金なんか誰にいわれなくてもする気になるだろうと思うんですよ。
ただ、教会は人の集まりなんで、人によってはガイダンスがどうしても欲しくなると言うか、目安を示してほしいという気も理解できます。
そういう意味では「教会の献金についてご質問のある方は会計係まで」みたいな制度が導入されてもいいかもしれません。
まあ、そんなことワタクシがここで書いたって
はてブの片隅で遠吠え
みたいなことなんで、あんま影響ないですけどね。
(。-∀-)
仔羊おばさん