大阪の口の悪いおっちゃんがよく口にする言葉に
戒名代だけで〇十万円もとりよんねんでぇ!
ぼったくりや―
というのがあります。
ワタクシはもう還暦を過ぎましたが、これまでに2,3回は耳にしています。
ワタクシはクリスチャンですから、内心は「ほんなら戒名代のいらないキリスト教はいかが?」みたいに言いたいところです。
しかし、です。
こういう輩(やから)はきっとキリスト教会でお葬式をしたとしても
あいつらあんな簡単な葬式で献金とりよるねんで。
ぼったくりや―
と、酔った勢いで口にすると思います。
( ̄▽ ̄)
まあ、カワイイもんですわ。ということにしとこう。
このブログの「献金」シリーズを書くようになり、種々感じいるところがあります。
くだんの「戒名代」の一件にしても、「あーそやから霊感商法に政府もなかなか手出しできなかったのかな」と思いました。
キリスト教式の結婚式やお葬式だってその「核」たる部分なんか時間短いですもん。
その短いものに多くの方は疑問にも思わず費用を払っています(ホテル婚など)。
読経などと違ってキリスト教などはお祈りも短いですしね。
もちろんお坊さんも牧師さんも資格があってできることであって、それなりのコストは当然と言えるかもしれません。
とはいえ図式としては、
そう大したコストがかかっているようにはみえない
ものに
やたらお金がかかる。
という点では霊感商法と共通します。
違いはなんやねん?
というと、実はそう大した違いはないようにワタクシには思えます。
けど、宗教ってそういうものなのではないですか?
さて、今日のブログ記事のメインですが、それはですね。
では、特定の宗教を信じてもいず、当然ながら
献金もお布施的なものもしていない人は、それらの恩恵に浴していないのか?
です。
さっきのおっちゃんの「ぼったくり」発言を聞いた時に考えたんです。
ワタクシはクリスチャンですから、仏教その他の宗教はホンモノではない、というスタンスです。
だけども、仏教が日本でもずっと続いてきていて、それこそ正月のお賽銭や読経に対するお布施や、戒名代などお寺が得て来た金銭の恩恵をワタクシは受けていないのか?
みなさん、どう思います?
ワタクシが最初に思い浮かべたのは「寺子屋」です。
江戸時代に庶民に「読み書きそろばん」を教えた教室の主たる場所がお寺だったから
という名前で記憶されている。
( ̄ー ̄)
そして、その庶民への教育の広まりがその後の日本の発展につながっている歴史を、ワタクシがクリスチャンだからといって否定することはできません。
これは事実ですから。
そして今もお寺の庭を楽しんだり境内に植えられた花を見て豊かな気持ちになったりします。
それも事実です。
話を別のところに。
京都の同志社大学などは、新島襄が大学設立の費用などをアメリカの教会で信徒に献金を募ったりして集めています。
それらの信徒さんたちは、ただの無名の一市民、一信徒です。
ある日ある時教会で新島襄の呼びかけに
席上献金を奉げた
ということなのです。
これはほんの一例ですが、多くの宗教系大学(高校や中学もありますね)、保育や介護の福祉施設も多かれ少なかれ信徒の献金が使われていると思います。
大学でいえば、国公立だけでなくそういった私学が教育の充実に一役かっているのも事実ですよね。
そう。
今日のブログでいいたいのは、国、政府だけで実現しないなにがしかの機能を宗教は果たしている、そしてその恩恵を皆が受けているのは事実。
ということです。
教会が献金を募る
というと、「カネ目当てか?」と怪しむ方も多いですが、実はその恩恵に自分も浴してはいるということに気づいていただければ、とワタクシは思います。
献金はけっして悪いものではないのです。
もちろん、その運用についてはチェックが必要ですけどね。
仔羊おばさん