この「現役プロテスタント教会会員が献金について説明する」も今回で最後としたいと思います。
旧統一教会こと世界平和統一家庭連合に解散命令請求されることになりました。
で、新聞などでも、人生で種々起きてくる問題、苦しみ悩みに
既存の宗教が受け皿になっていない
と指摘されています。
確かにな……。
キリスト教も宣教はしているのですが……。
まあまた、そういう宣教行為もほとんどの人にとっては迷惑なのかな……と感じることも多いです。
受け皿には必ずなれると思うんですよ……。でも、届いていない。
さて、ところで、キリスト教では献金をしますが、現役プロテスタント教会員として教会生活35年以上になるワタクシが
では、献金って何なんですか?
と聞かれたら、ワタクシの答えはこれです。
献金ではなく献身が本来
よって、最後の最後には「お金ではない」という域にキリスト教は入っていくと思います。
「献身」とは、自分の持ってる金銭だけでなく所有物も才能も時間も性格も能力も機会も、あらゆることを神様に捧げる、用いることです。財産全部が神のものという概念ではあるのですが、だけども、何といいますか、そこに「愛」がなければむなしい「銅鑼(どら)」のようなものだという感じです。
キリスト教はどこか「イケイケドンドン」なところがあります。
才能や機会は存分に使って明るく生きて、カネも稼いで愛をもって喜んで捧げる、という方向です。
聖書でイエスキリストに「一番大大切なことは何?」と聞いた時のイエス様の答えは:
第一「こころを尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」
第二「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」
でした(マルコによる福音書12章)。
「愛」というのがキーワードです。
つまりですね。
献身にしろ献金にしろ「神様への愛と隣人への愛」にくっついているものだと言えます。
ここをはき違えてしまうと、キリスト教はキリスト教でなくなってしまうのでしょう。
キリスト教は世界三大宗教の一つで信者も世界的には多いです。けれども日本では少ないですね。
人口の1%にも達していないという有様です。ご立派なマイノリティーですね。
私は時々、教会もお寺や神社みたく、ちょっと立ち寄って手を合わせてお賽銭投げ入れて、みたいにできないのかなと思うことがあります。
なんか「お手軽」ですもん。
これが教会だと「日曜礼拝」に行って……みたいなことになる。
礼拝では聖歌を歌ったり祈ったり、牧師さんの説教を聞いたりします。
ちょっと時間がかかります。
「お手軽」感に欠ける。
で、はっと気づきました。
よう考えたら、礼拝も「捧げる」って言うわ。
( ̄ー ̄)
礼拝に参加すること自体、「献金」でなく「献時間」。
神様に時間を捧げる、という行為ですね。
今日、このブログでうまく言語化はできないのですが、
キリスト教ってそういうものなのです。
キリスト教のみならず、宗教は常に貧者に寄り添うものではないですかね。
持たざる者が信者の中核にいるのであるから、献金など無理、というのが前提である気がします。
でも、もしも何かに恵まれて財産を所有した時に私利私欲に走らず、社会公共、困っている者のために捧げるというのが各宗教の教えではないでしょうか。
キリスト教では、なので、礼拝に参加する、それだけで「献金」ならぬ「献時間」をしているということですかね。
他にも、隣人すなわち自分の知り合いや友人や、ともかく自分以外の誰かにむけた親切や愛に基づく行為こそが神様の喜ばれることなのでは?
それも含めての献身、と考えるワタクシでございます。
仔羊おばさん