さて、このシリーズについて書きたいと思ったのは、安倍元総理の銃撃・殺害事件に端を発し、旧統一教会の霊感商法や過度の献金を募ってきた問題が報道などで大きく取り上げられてきたことが大きいきっかけでした。
そして
1.献金の種類
2.献金って何?
あたりを中心にこれまで書いてきました。
ワタクシは洗礼を受けてから35年ほどになる現役のプロテスタント教会の教会員です。
牧師ではありませんので、聖書に親しんではいますが、詳しくはありません。
献金に関しては、自分としては結構捧げてきたつもりです。
自己評価は高いんですよ。
( ̄▽ ̄)
さて、安倍首相の一件では、安倍首相自らが旧統一教会系の集会にビデオ出演していましたね。
また、選挙の応援やお手伝いや票の獲得に一役かっていた、というような報道もありました。
もともとは「反共産主義」ということで自民党と旧統一教会とで一致があったことも報道番組でワタクシは知りました。
しかし、そういった「実利」がなくとも政治が宗教を利用している面はあると思っています。
そうでなければ「宗教」って扱いが厄介だし、霊感商法みたいな問題も起こしたりするし、世の中単純におさまります。
ワタクシは企業で働く際に「社内での宗教活動禁止」の誓約書にサインする時、「いち信徒としてこれは聖書に反する行為なのではないだろうか……」とひとり悩んでいます。
仕事は生きていくのに必要だから、サインはしたいんです。
また「人にしてもらいたいと思うようにあなたも人にそうしなさい」みたいな教えも聖書にはありますから、職場で他宗教の人から誘われるのも嫌なんだから自分もあかんよな、みたいにも思います。
しかし「時がよくても悪くても神の国を宣べ伝えなさい」とも聖書にあるじゃないですか。
そうすると、「自分は神様の命令に従っていない悪い信徒だ」というのが芽生えてきます。
で、同じ教会の(主には男性方になりますが)人たちも会社で働いてる人たちは似たような誓約書にサインしてるんだろうなって……思ったりします。
でも、このことについて話題にすることはありません。
「あなたも聖書に従って生きてないですよね」って言うみたいなことはしたくないし、かといって、もしも自分だけ聖書に反していたら悲しいし。
まあでも、ワタクシの知る範囲内での狭い場所ではこうやって宗教の広まりを抑えています。
政治だって「宗教を違法」とするのは過激としても、なんとなく「宗教あかんよな」みたいな方向に持って行くことは可能ではあると思います。
でも、政治がその方向に動くことはありません。
なぜか?
ワタクシが考えるに、それは宗教は
良き市民
を育成するからだと思います。
「献金」ということでいえば、教会で献金に慣れてくると税金もほいほい払うようになります。
社会公共のため
あるいは
他者のため
に生きたり、お金を出すことがあんまり苦痛でなくなるのです。ってか、「役立ってる感」が結構快感だったりします。
それは「献金してるから」ではなく、「神を信じて正しく行きたいと願うようになる」からだと思うんですが、実際の行為として、献金に慣れると
NHKの受診料にも抵抗感じないし(少なくともワタクシは……)、何かの会費とかもちゃっちゃと払うようになったし(少なくともワタクシは……)、年金とか社保料とかも喜んで払ってマス(少なくともワタクシは……)。
なんて言うんですかねえ。
金払いがいい
とでも申しましょうか……。
神と富とに両方仕えることはできない。
って聖書に書いてあるんですが、神に仕える気持ちで生きてると金に執着しなくなるのかな……。
なんか、そういう変化を自分のうちに見い出します(少なくともワタクシは)。
国としても脱税しない市民が増え、ウソついたり泥棒を働こうとしない人が増えることはありがたいことですよね。
宗教はそういう「良き市民」を増やすのに一役買っているから、政治は容認するのだと思います。
また、宗教法人税の優遇もそのあたりに理由があるんじゃないかとワタクシは考えました。
そして、結果として治安のいい社会の維持につながるならば、税収も安定すればその方が、特定の宗教を信じていない人にもその恩恵はあるわけです。
キリスト教に限りません、他の宗教もそういう「良き市民」を生み出すことに一役買っているから、政治は宗教を容認するんだと思います。
そして、宗教はやはりこの世の中にプラスの作用をもたらしているのです。
だから、そう忌み嫌わないでほしいなと今、改めて申し上げたいです。
仔羊おばさん