東京オリンピックのテーマコンセプトに「多様性と調和」が掲げられています。
今回の大会では聖火の最終走者が大坂なおみさんだったこと、歌手ミーシャさんの衣装にレインボーカラーが使われていたことなど、この「多様性」というキーワードがなければ、
なんで?
(。´・ω・)?
と首をかしげられていたかもしれません。
確かに、「日本人」といっても、その見た目が絶対に
こう!
と決まってるワケではありません。
性に関しても、絶対に「男と女」2種類ではなくなってきてる感じですね。
私の行っている教会は、キリスト教のプロテスタントで、もともとは戦後ヨーロッパからの宣教師が作った教会からスタートしました。
LGBTERについて、私の教会の所属する教派では「男と女」以外は認めていません。
それ以外は「罪」の領域だったと思います。20年くらい前はそういうことをハッキリ教会の説教でも聞いていた記憶があります。
今は、もしかしたら結構曖昧になってるかもしれません。
歴史を振り返ってみると、例えば「奴隷解放」の世論を支えたのもクリスチャンなら、奴隷制の廃止に反対したのもクリスチャンです。
もひとつ加えれば、人種差別に反対の意を示しているのもクリスチャンですが、KKKのように皮膚の色によってはっきりと接し方を変えていたのもクリスチャンです。
彼らは本物のクリスチャンじゃない!神様の声を聞いていない!と言う方もおられると思いますが、「奴隷制の賛否」について歴史を学ぶと、それはクリスチャンも両方の考えを持っていたのは事実です。
聖書の時代は女性は「人」ではなかったし、奴隷も存在していました。
私はクリスチャンの一人として、キリスト教は「男女平等」そして「人種差別反対」の立場を取るものだと信じています。けれども、聖書は読みようによっては奴隷制を肯定している語句だってあります。
そんな時代に書かれたものですから。
とすると、LGBTRについても、かつては「罪」の領域だったかもしれませんが、「愛」の気持ちに立てば、排斥、排除の方向ではなく、受容の方向に動くのが自然なことではないでしょうか?
例えば「離婚」についても聖書的には「罪」ですよね。
でも、私の教会にも離婚して再婚しているカップルもいますし、立派に信仰生活を送っています。
ノンクリスチャンとの結婚も、賛成する教会はなかろうと思います。
実際、私も牧師婦人に相談した時に反対もされませんでしたが、賛成もありませんでした。
「異教徒との結婚」ですからね。
聖書的にはそれも本来は良くないことの中の一つ、御心にかなうものでないことの一つですよね。
でも、聖書にはそういうノンクリスチャンもクリスチャンの妻を得ることによって祝福がある、といういい方の部分もあります。
ジェンダーについて、私の教会の教派ではまだいませんが、伝統的なプロテスタントの教派でも、「G」の牧師さんが奉仕をされてる教派もあります。
TOKYO2020の掲げる「多様性」のところ、まだまだクリスチャン同士でも揺れている部分なのかなと思います。
でも「キリストの愛」は何か?
と考えて祈る中で、やっと本当の行くべき方向性が見えてくるのだと思います。
そして、それはこれまでの伝統や価値観と相反するところがある。
「旧約」の時代の信仰に対してイエス・キリストはある種価値観の大転換を宣べ伝えた。
今の時代で聖書を読むクリスチャンも、「隣人に対する愛は何か」祈る中で、価値観の転換を迫られるのではないかと思う。
仔羊おばさん