いやー驚きですわ!
このブログの今月のアクセス数が100を達成しました!
このブログは普段訪れる人もない誠に平和なブログです(でした)。
それが、「旧統一教会の献金問題」に触発され、自分としても「じゃあ献金て何なのだ?」と、考えたいところもあったし、献金を機に教会から離れる(キリストを信じて洗礼受けたのにそれが機になってあっちゅう間にクリスチャンやめる)人も見て来たので「それはあまりに残念過ぎる」と言いたい気持ちもあり、このシリーズを書いてきました。
↓ このシリーズです。
これまで数えて13回。
それでもまだ十分ではない、まだ書くべきことがある、という気持ちです。
今日は献金についての説明ではないのですが、少し角度を変えて書いてみたいと思います。
まずは聖書の言葉から。
だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、
あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。
あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。
それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。
それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存知である。
まず神の国と神の義とを求めなさい。
そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
だから、あすのことを思いわずらうな。
あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。
一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
マタイの福音書6章23節~33節
神か、富か?
神を第一に、と言っている。
まず神の国と神の義を求めれば、生活に必要な食べ物や飲み物、着物は添えて与えられると言っている。
ワタクシが実際に教会で見た限りでも、クリスチャンにはお金のある人もない人もいるが、おおむね生活が安泰であるということはいえるのかと思う。
ただ、クリスチャンは日本では数的に少なすぎて、金持ちが多いか貧乏人が多いかという判断はつかない。
金持ちが多いかというと金持ちも多くないし、貧乏人が主流かと言うとそうでもない、という気はする。
私自身もものすごく収入が少なくて貧乏だった時もあれば、十分に余裕がある状態にもなっている。
生き方として、いわゆる「クリスチャン」というと、美容に凝ったりブランドものを集めたりとかしないし、酒を飲みに行くとかパチンコ屋に日参するとかもほぼない。
生真面目に働き、家庭を大事にしてれば自然と生活は安泰になる、ということかもしれない。
人生で大事なものはそう多くなく、「一番」を神に決めるとほかも大体決まってくる、ということなのだろう。
だから、何度も繰り返し言いたいのだが、献金が嫌だからといって教会を離れるくらいなら、はっきりと
「今は献金については納得ができないから少し待ってほしい」と本音で話し、まずは
神の国と神の義を第一に求める生活を送ってみてはどうだろか?
例えばお金に困っていて、家賃を滞納してるとか、パチンコ中毒で困っているとかなら、それも正直に言ってみて、牧師などに一緒に祈ってもらうとよいと思う。
別に恥ずかしいことではない。
教会は正しく生きてる人のためにあるのではなく、全ての救いを必要としている人のためにあるのだから、SOSを発信してよい。
困窮してる人に献金を求めるのは私の目から見ても
「ヤバい教会」である。
仔羊おばさん