始めに個人的な思いから書く。
ワタクシの次男は統合失調症を3年ほど前から患っており、回復していい調子が続いていて、もうすぐ就労も可能か?
と考え始めた矢先、昨年の秋に再発し、今は就労どころか教会に行くことも、好きな音楽に興味を示すこともなく、また中学生くらいの時に10分くらいであっさりできていたことも30分ほどかかるとかそんな状態になっている。
服装なんかはそこそこまともだし、歯を磨いたり髪を洗ったりなどは時間がかかるものの、まあ自分でやって問題ない程度なので、そこは救いではあるが。
再発に関しては、服薬をさぼったことが一因ではあり、そのあたり本人任せにして安心しきっていた自分の昨年がものすごく悔やまれる。
そんな中でもワタクシ自身は変わらず聖書を読み、祈り、教会にも通っている。
信仰を捨てたわけでもないし、捨てる気もない。
しかしながら、である。
( ̄ー ̄)
教会で「神の愛の大きさ」や「いかに神様が私を愛してくださっているか」というような言葉を聞くと、次男の病状も含め、自分の人生がまあ順調だった時は「本当にそうだ。感謝だ」と思っていたけど、最近はどうにもそうは思えない。
神様は私は愛していないよ。
と思うし、
悪事を繰り返した次男に罰を下されたのだ。
とか思うのが正直な、嘘偽らざるワタクシの心境だ。
敬虔なクリスチャンとはとても言えない。
こんなセリフ、誰にも言えない。
でも、本当に本当の正直な私の思いだ。
今、石川県能登地方で地震や津波、山崩れなどで命を落とし、避難所で寒さに震える人の姿を見るにつけ
神も仏もあるものか
という言葉を思い出す。
こんな悲劇を愛である神様が許される、ということがどうしても解せないのが普通だと思う。
しかしそのまた一方で……
お正月に「100分de宗教論」という特番があったのだが、そこで遠藤周作の本が紹介されていた。
この本の内容が最後に紹介された。
そうである。
「神などいるものか」と思うほど悲劇に満ちたこの世の中で、それでも辛い心に寄り添い、人に希望を与えるのがまた宗教であり、イエス・キリストの示した「愛」なのだ。それもまた、一つの事実だ。
私は今、あんまり信仰に立った状態だとはいえないのだけれど、そのまた一方で、神の癒しを願い、どこか神の癒しを信じ、希望を持っているのも事実だ。
確信はないのだが。
( ̄ー ̄)
そう考えていくと、宗教は謎だ。
信仰も神の愛もまた謎だ。
仔羊おばさん